大豊神社 本殿 |
大豊神社 疏水にかかる大豊橋を渡り、緩やかな石畳の参道を上ると石の鳥居が見えてくる。 ここは椿ヶ峰の山麓に鎮座する旧村社で、少彦名命と応神天皇、菅原道真が祀られている。 境内の末社大国社には、ねずみが野火に囲まれた大国主命を救い出したいう神話に基づき、狛犬の変わりに可愛らしい狛ねずみが置かれている。 若王子神社 再び流れに沿って南すると、堤のすぐ下に光雲寺の大きな甍が見えるあたりから、遠く京都の街が展らけ、西山に陽の傾く頃が美しい。 哲学の道の南の基点に若王子神社がある。 このお社は、永暦元年(1160)後白河法皇が、紀州熊野の那智山を勧請して建てられた正東山若王寺の鎮守で、明治維新の神仏分離により、寺は廃され当社だけが残された。 かっては亀山天皇、足利尊氏等の崇敬深く、義政もこの地で花見の宴を開くなど隆盛をきわめたが、応仁の乱により社殿は焼失した。 その後秀吉によって再興され、現在の社殿は明治に修築されたものである。 新島襄の墓 |
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若王子神社 本殿 |
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新島襄の墓 社前の山道を500メートル程たどれば新島襄、山本覚馬、徳富蘇峰等の墓がある。 新島襄は21歳の時米国へ密航し、彼の地の大学で理学、神学を学び、キリスト教宣教師として帰国した。 キリスト教主義の学校創設を志し、同志社英学校並びに同志社女学校を創立したが、明治23年1月23日47歳で病死、この地に葬られた。 そのまま山道を南へ下ると駒ヶ滝を経て南禅寺へ至る。 |
永観堂 庭園 |
永観堂(禅林寺) 若王子から南禅寺へ向う途中に、通称永観堂で知られる聖衆来迎山禅林寺がある。 中門をくぐると鶯池を巡って楓樹茂る境内がのびやかに広がり、諸堂宇は東山の地形を利用して、その翠の中に閑静な佇まいをみせている。 ことに池畔の岩垣もみじは名高く、春の新緑、秋の紅葉の頃には訪れる人が多い。 当寺は斉衡2年(855)弘法大師の弟子真紹僧都が藤原関雄の山荘を精舎とし、貞観5年(863)定額寺に加えられて禅林寺の号を賜った。 平安中期の承暦年間(1077〜80)に至り、三論宗の永観律師が入寺され、浄土念仏によって人々を救済せんと志し、念仏道場を開くとともに、貧しい病者の保護治療のため、東南院という施療院を建てた。 その時境内に梅林を作り、その実を薬用に供したが、今も本堂の前には悲田梅としてその面影をとどめている。 永観堂の名は永観律師を讃えて、後世に名づけられたものである。 ご本尊の阿弥陀如来は世に「顧(みかえり)如来」といわれ、御丈80センチ余りの小柄な仏像で、顔を左斜め後ろに振り向き 柔和な微笑を浮かべた他に類のないお姿をされている。 寺伝によれば永保2年2月15日の早朝、永観律師が本堂において念仏行道を修しておられる時、阿弥陀は静かに壇上より降りて、永観の前に立って先導された。 |
驚いた永観が行道を止めて立ち止まると、阿弥陀は左に見返り「永観遅し」と声をかけられた。 永観余りの有難さに「奇瑞の相を後世永くとどめたまえ」と祈念され、そのお姿を今に残すという。 その後、平清盛の異母弟池の大納言頼盛の子、静遍大僧都が住持となる。 法然上人の「選択本願念仏集」に深い感銘を受けた静遍は、法然の高弟西山の証空上人に当寺を譲り、以来浄土宗西山禅林寺派の総本山として今日に至っている。 応仁の乱の兵火により伽藍は鳥有に帰したが、明応6年(1497)後土御門天皇によって諸堂が再建された。 方丈には長谷川等伯の「竹虎図」(桃山)を初め、数多くの障壁画があり、山越阿弥陀如来図(国宝)も名高い。 池のほとりに与謝野晶子の歌碑がある。 明治33年の秋、新詩社の主宰者与謝野鉄幹(28歳)は、同じ門下生の鳳晶子(23歳)と山川登美子(21歳)を伴ってこの地に遊んだ。 二人の女性は、若き師鉄幹へほのかな思慕を寄せ、鉄幹もまた登美子に惹かれていた。 妻との不和に心痛める鉄幹、ひたすら師を恋う晶子、親の勧める縁談に悩む登美子、紅葉につつまれた境内を散策する三人の胸のうちでは、それぞれが人生の深い悩みを抱いていた。 やがて登美子は、鉄幹へのせつない想いと文学の道を振り捨て、外交官と結婚することを決意し、郷里の若狭へ帰って行く。 翌34年1月、再び鉄幹とともに永観堂を訪れた晶子は、離れていった登美子を思いこの歌を詠んだ。 その秋には、晶子は先妻と離別した鉄幹と結ばれるが、二人のロマンスを大胆に歌い上げたのが晶子の処女歌集「みだれ髪」である。
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永観堂 総門 |
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多宝塔 |
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釈迦堂前庭 市松模様白砂 |