疏水   

 日岡山のトンネルを抜けた琵琶湖からの水は舟溜りに貯えられ、本流は発電所の送管を通って動物園の下へ、支流は南禅寺へ流れている。

 その昔、平清盛が琵琶湖の水を京都へ引いて運河を作ろうとし、豊臣秀吉もまたそれを考えていたという。
しかし、この夢を実現させたのは工部大学校(東京大学工学部の前身)の学生田辺朔郎の卒業論文であり、無謀だという批判の中で、敢然とそれを実行した当時の京都府知事北垣国道の決意であった。

 明治18年大津美保崎から蹴上まで約8,7キロの工事を起工、長等山のトンネルでは地下水の流出をともなって、殉難者を出すといった難工事のすえ、第一疏水は明治23年遂に竣工した。 

 大津と京都の舟運が栄え、更には日本で最初、世界でも二番目の蹴上水力発電所が完成、京都に電車が走り、明治奠都で火の消えたような街に文明開化の華が開いた。
   
第1疏水蹴上げ出口

   船の台車と左端の石碑は弔魂碑

   当時の舟を台車に乗せて、上の舟溜りと下の疏水を結んだインクラインが、今も昔日の面影をとどめ、インクラインの上の広場には田辺朔郎の紀功碑と犠牲者十七名の弔魂碑がひっそりと建っている。

 南禅寺橋のたもとには疏水記念館があり、疏水に関する資料が展示されている
 
 インクラインから平安神宮大鳥居を望む

  桜満開のインクライン

    田辺朔郎像と紀功碑

         日向大神宮

 疏水の東山トンネル出口を右に見て、山道をたどること十分余りで、日向大神宮に至る。
 清和天皇の勅願により、貞観年間(859〜77)粟田山に天照大神を勧請したことに始まると伝えられる。
伊勢の内、外宮を模して造られた上、下の社殿は屋根に千木、鰹木をいただき、神寂びた静けさが漂う。
天の岩戸も残されている。



         右写真  鳥居の奥 上の本宮(内宮)
                手前 下の本宮(外宮)