修学院離宮

 赤山禅院から、のどかな農家の土塀に添って小径を抜けると、すぐに修学院離宮の正門に出る。
清楚な磨き丸太の門柱に竹を配した扉は、優雅にして気品が漂う。
この修学院離宮は江戸時代初期、後水尾上皇によって造られた。
当時朝廷の力は衰微して、徳川幕府の手にその実権は握られ、英邁で実行力に富む後水尾天皇といえども、何事においても自らの意志を貫くことはできなかった。
特に天皇の勅定でもって高僧へ与えられた上人号を、幕府が否定するという有名な紫衣事件が起こるに及んで天皇の憤懣やるかたなく、35歳の若さで譲位される。

 その悲憤の慰めを風雅の道に求め、山荘造営に情熱を傾けられたのがこの修学院離宮である。場所の選定には、上皇が洛北の地をあちこち訪ね歩かれ、ついに比叡を背に水利もよく、自然の眺望にも恵まれたこの地に山荘を定められた。
造営にあたっては一木一草から踏石捨石に至るまで、自ら土で雛形を作られ設計されたと伝えられている。
総面積28万平米を有するこの離宮は自然の地形を利用して、上、中、下の御茶屋と三段に分かち、それぞれ趣を異にし、大自然の美と人工の美の溶け合ったスケールの大きい庭園を形造っている。


  

修学院離宮正門

 


下御茶屋

 下御茶屋には、上皇御幸の際の御座所として建てられた寿月観がある。 現在の建物は文政7年(1824)の再建である。 
 杮葺の屋根、紅殻塗りの壁、それに明かり障子に濡れ縁をめぐらした風雅な数奇屋風書院は、清々しい白川砂に飛び石を配した前庭と、しっとりとした松の緑につつまれて、いかにも閑静で美しい。
            
                               寿月観
               中御茶屋

 中御茶屋は、もと上皇が第八皇女朱宮光子内親王のために楽只軒を賜って朱宮御所となし、朱宮御落飾にともない林丘寺となり、明治18年林丘寺より、再び宮内庁に返還されて中御茶屋となった。
     
                 中御茶屋への松並木



楽只軒は寛文8年(1668)朱宮の御居間として建てられたもので、女性らしい簡素なたたずまいに朱宮のありし日がしのばれる。
 重厚な書院造の客殿は、東福門院の女院御所にあった奥対面所を、延宝6年(1678)ここに移したもので、室内も華麗をきわめ、特に春霞のたなびく如くに配した霞棚は、桂棚、醍醐棚とともに天下の三棚として名高い。

 千歳橋


楽只軒

  
  霞棚
 

上御茶屋臨雲亭からの眺望

         上御茶屋

 上御茶屋の小高い山腹にある臨雲亭に立つと、海抜150メートルの視界は大きく広がり、気宇壮大なパノラマが展開する。
 築山の斜面は数十種の常緑樹を混植して、四季折々の彩りをみせる大刈り込みにおおわれ、眼下には谷川のせせらぎをせき止めて造られた浴竜池が、紺碧の水をたたえて池畔の樹影を映している。

 右手に鞍馬、貴船と続く洛北の山々、正面手前に松ヶ崎、宝ヶ池の小丘、その後に愛宕山がそびえ、左手に京都市街を望み、はるか彼方に淀川が白く光る雄大な景観は、借景庭園というよりも自然そのものである。

                       
          林丘寺
 
 宅地開発の波は静かな修学院の里にもひしひしと迫り、風情ある景色は日々塗り替えられつつある。
 
 しかし、禅華院の前に広がる田園は、初夏には早苗をそよがせて吹く風に蛙が騒ぎ、秋の穫り入れにいそしむ里人の姿も牧歌的でのどかである。

林丘寺入口




 明治になって書院、建物の一部を宮内庁に返還し、後に現在の本堂、方丈を建てて堂宇を修復整備した。
書院東庭の小高い丘には、かって嵐山を遠望したという四阿、望嵐亭があり、また、加藤清正が朝鮮より持ち帰ったと伝えられる古雅な三重の石塔、桧垣塔がある。

のどかな田園風景


 この田園は風致地区として、離宮の景観を守るため宮内庁が買い入れたもので、稲田の中に白い農道が伸び、つきあたりのこんもりと茂る中離宮の木立につつまれて尼門跡林丘寺がある。

 皇女朱宮は、後水尾上皇より賜った楽只軒を仏寺とし、延宝6年(1678)後水尾上皇が85歳で崩御されるや、朱宮はその菩提を弔うため落飾、この地に居を移して臨済禅宗天竜寺派の門跡尼院林丘寺とされた。

桧垣塔