鷺森神社

修学院離宮から南へ音羽川を渡り約400メートル、村落の中ほどに鷺宮神社がある。
その昔、鷺の棲息していたところから地名となったのであろうが、今も四季折々に野鳥のさえずりが聴かれ、静かな境内の陽だまりで子をあやす老女の姿に、修学院から山端にかけての産土神としての、素朴な信仰と親しみがみられる。 
御祭神は素盞鳴尊を祀り、神号を鬚咫天王という。
貞観年間(859〜877)の創建と伝えられているが、もと赤山禅院の近くに祀られていたものを、応仁の乱の兵火にかかり修学院離宮の地に移し、さらに離宮造営のため、現在の地に遷座された。
本殿は流造り桧皮葺で、安永4年(1775)に改築されたものであるが、昭和41年幣殿、唐門、回廊を新築、併せて本殿も修復され荘厳さが漂っている。
5月5日の例祭には、子供たちが菅笠に紅襷をつけ、鉦や太鼓の囃子につれて踊る「サンヨレ」という踊りが保存されている。

本殿

曼珠院

            曼珠院 門前

        

 鷺森神社から曼珠院へのつま先上がりの道は、秋には澄みきった空に赤とんぼが群れ飛び、振り返ると京都市内を一望できるのどかな道である。
道の突きあたるところ、楓樹に囲まれて苔むした石段の上に、一段高く曼珠院の山門がある。
門前に亭々とそびえる杉木立、あたりの静かなたたたずまいは、門跡寺院としての気品と風格がある。                 
 曼珠院は、天台宗の門跡寺院で竹内御所とも称し、天台五箇門室の一つに数えられる名刹である。
寺院の歴史は古く、延暦年間(782〜806)伝教大師が比叡山に延暦寺の一院として開かれたことに始まり、その後西塔に移って東尾坊と称した。
天暦年間(947〜956)北野神社の造営にともない北野別当職を兼ね、曼珠院と名を改め、北山の地を経て御所の近くに移った。
 
 そして明暦二年(1656)、良尚法親王によって初めてこの地に移り現在の堂宇が建立された。
良尚法親王は、桂離宮を造営された八条宮智仁親王の御子で、二代桂宮智忠親王の御弟にあたられる。
和歌を初め絵画、書道、茶道等多方面に造詣深い良尚法親王の優れた教養の深さが、この寺院の建築、庭園や調度品のひとつひとつにしのばれ、特に桂離宮とのつながりは興味深い。 
通用口である庫裏から入り長い廊下を抜けると、奥に大書院(江戸、重文)と小書院(江戸、重文)が庭に面して雁形に並んでいる。

   曼珠院 山門

 いずれも柿葺数奇屋風建築で、軒の深い庇をめぐらし、赤褐色の壁の瀟洒なたたずまいは、松の緑と庭の白砂に映えて美しい。

 小書院は閑静亭と称し、長押の釘隠は七宝入りの富士を型取り、三十数個その全てが雲の模様を異にする。
襖絵は狩野探幽の筆と伝えられ、奥には上段間、付書院、曼珠棚がある。
その後ろには有名な八窓軒(江戸,重文)の茶室がある。
 正面左手に立石を一つ据えて滝を表し、滝つ瀬を流れ落ちる水は石橋をくぐり、分水石に分かたれ、白砂の大海にそそぐ、右に舟形の松を配した鶴島、左に亀島がある。

 小書院前の「梟の手水鉢」も面白い。
この庭は刈り込みの霧島が真紅に燃える五月上旬と紅葉の頃がひときわ風情がある。
 

曼珠院 庭園

    手前亀島 奥鶴島

   梟の手水鉢