葉山観音

 葉山観音は曼珠院から山裾の道を詩仙堂へ向かう途中にある。
臨済禅宗林丘寺の末寺で一灯庵と称し、もとはここに林丘寺開山元瑤尼の一灯庵があった。
 本尊三面馬頭観音は、牛馬の守護仏として昔は博労の人々の信仰を集め、今でも競馬関係者等のお参りがある。
境内の木立の中に「梅田雲浜先生旧蹟」の碑がある。

 幕末勤王の志士梅田雲浜は福井小浜藩士で、幕府を批判して藩から追放を受け、尊王攘夷運動に奔走、嘉永5年(1852)五月洛西高雄からここ葉山観音堂へ流浪の身を寄せた。
ここでの赤貧洗うがごとき生活は、「妻は病床に臥して、子は飢えに叫ぶ」の有名な雲浜「生別死別」の句でも知られ、妻信子の
「樵り置きし、軒のつま木も焚き果てて、拾う木の葉の積もる間ぞなき」
という歌にもしのばれる。
安政の大獄で捕らえられた雲浜は、安政6年(1859)9月江戸の獄中において44歳で病死した。

 
   

葉山観音 本堂

   
    三条実萬公隠棲の地

 葉山観音から三条実萬公隠棲の地へと足を伸ばしながら、幕末風雲急を告げる安政の大獄前夜に思いを馳せてみよう。

 ペリーの来航によって鎖国の夢を破られた幕府は、ハリスから日米通商条約の調印を迫られ、その勅許を朝廷に奏請してきた。
 しかし、孝明天皇を初めとして公卿のほとんどが攘夷論者であり、開国をいさぎよしとはせず、窮地に追い込まれた老中堀田正睦は、関白九条尚忠を懐柔し、一時は関白も外交については幕府に一任するとの意向を示したが、内大臣三条実萬はその策謀を頑として封じた。
 そこに将軍継嗣問題が絡み政局が混沌とした時、井伊直弼が大老職につき、条約調印、徳川慶福の将軍継嗣を専断し、更には一橋慶喜擁立派を一掃、幕府の独裁制強化を図った。

 この幕府の動きに孝明天皇も激怒され、反幕府派公卿や尊皇攘夷を叫ぶ梅田雲浜、頼三樹三郎、梁川星巌等志士の暗躍が目立ちだした頃、彼等の弾圧を旨とした井伊大老による「安政の大獄」が行われた。

 追われる立場となった三条実萬公は落飾し、安政6年(1859)3月幽居の身を、ここ曼珠院家臣渡邊忠助宅に寄せたが、同年10月不遇の内に58歳をもって薨去した。今その旧宅跡は薬師堂となり、「忠成公隠棲之地」の碑が残されている

 
 
     

梅田雲浜旧石碑

   
          

    一乗寺下り松

 三条実萬公隠棲の地から下りて来た道と、市バス一乗寺を東へ入った道の交差する所に、石垣に囲まれて「宮本、吉岡決闘之地」の石碑と並んで、4代目の松の木が植えられている。
 慶長9年(1604)剣豪宮本武蔵は、蓮台野で吉岡清十郎を倒し、その弟伝十郎も洛外において一撃の下にこれを破った。
 そこで吉岡門人達は、清十郎の子又七郎と謀り、数十名がこの地において恨みを果さんものと宮本武蔵を迎え撃つが、武蔵は又七郎を斬り悠然と立ち去ったと伝え聞く。

その横には「大楠公戦陣跡」の碑もある。
 太平記によれば、建武3年(1336)正月足利尊氏の大軍を迎えて、楠正成は比叡山を下り、結城、伯耆の諸将と共に僅か三千の兵でこの一乗寺に陣し、夜明けを待って進撃、敵の大軍を西海に退けた
またこの地には平安朝の頃、近江園城寺の別院一乗寺があったが、この楠正成の合戦で焼失、今は地名に名をとどめるだけであり、一乗寺跡の石碑は集会所の中にある。

  三条実萬書          実萬隠棲の地石碑             4代目一乗寺下がり松 左 宮本武蔵決闘の碑
                                                           右 大楠公戦陣の碑


円光寺山門

  
         

     円光寺


 詩仙堂の手前を少し北へ入ると、臨済禅宗円光寺がある

 この寺は、徳川家康が慶長6年(1601)下野の足利学校を伏見指月に移し、学問の振興を図るため元佶三要和尚を招いて寺としたことに始まる。
後、相国寺の地を経て、寛文7年(1667)この地に移った。



水琴屈
 

円光寺 十牛の庭 栖龍池

 明治から昭和末年頃までは「尼衆専門道場」として、尼僧たちの厳しい修行の場となっていた。

 現在は寺も一般公開され、翠黛迫る境内には洛北の最も古い庭園池「栖龍池」や、家康を祀る東照宮、それに幕末の隠密村山たか女の墓がある。

 寺宝としては、家康から移管された朝鮮文書二百部、日韓書籍及び木製活字十万個がある。
木製活字は、朝鮮の役に際し輸入したもので、我国印刷文化史上重要なものである。
 

村山たか女墓