詩仙堂
 

  詩仙堂は円光寺からほど近く、下り松を東へだらだら坂を登ると、史跡詩仙堂の小さな碑と、「小有洞」の扁額を掲げる板葺きのささやかな門がある。


  門をくぐって玄関への竹林の小径はしめやかで、竹の葉末をもれる陽光も淡く、俗塵を離れて住みなした石川丈山の、詩の心に通じる幽邃さが感じられる。
   

詩仙堂入口 小有洞

 
書院より見る南庭
 
       以後、丈山は風月を友とし、風雅の道に親しみ、藤原惺窩   について朱子学を修めるなど、文人としての道を歩む。
 一時、母への孝養のため浅野家へ仕えたが、母の死後京都   へ帰り、寛永18年(1641)一乗寺に草庵を結び、90歳で世を 去るまでの30年をこの地で悠々自適に余生を送った。   
  この草庵は凹凸窠と称したが、丈山は我国三十六歌仙に因  んで、杜甫、李白等、中国漢、晋、唐、宋の詩人36人を撰    び、狩野探幽にその肖像を画かせ、詩は自らが書いて一室に  掲げた。
その部屋を詩仙堂と号したため、いつしか草庵の代  名詞となった。                 
 今は、小早川秋声画伯による模写の額が掲げられている。   



 

庭園より嘯月楼を望む



 

   藤の花咲く下の庭園
           右 老梅関と嘯月楼

 




現在の建物、庭園はともに丈山の没後100年ばかりを経て、寛延元年(1748)に改築されたもので、静寂なたたずまいと、嘯月楼、詩仙堂、洗蒙瀑等、丈山の撰した凹凸窠十境は、今なおそのままの風情を残している。

 書院の前庭は白砂を敷きつめ、つつじの刈り込みで空間を区切って、青山と海洋を表し、山茶花の老樹の葉陰から、遠く京都の市中が霞につつまれて広がる。

 
   

残月楼

 

僧都のししおどし

 
             


 東北隅には、裏山から流れ落ちる清水が滝となり、小塔を配した前栽の間を縫って下の庭にそそいでおり、この辺りに丈山の好みによる唐様庭園としての趣がみられる。

 時折しじまを破って山間にこだまする「僧都のししおどし」の響きに、一層森閑とした静寂さが残る。
 
 各部屋に展示されている丈山の遺墨は、隷書において当代第一と称されただけにいずれも雄渾にして力強く、丈山の武人としての気骨と、文人としての豊かな素養がしのばれる。