北山御坊

 詩仙堂から南へ少し入ったところに、親鸞上人御旧蹟北山御坊がある。
ここも元比叡山三千坊の一宇、養源庵の跡であり、粟田口青蓮院で得度した親鸞が、比叡山へ籠もるまでの一年半の間修学に励んだ地で、御里坊ともいわれる。
後、親鸞は比叡山から京都六角堂へ百日通いの行をし、この境内に湧出する霊水にて、その都度身を清め休息をとられた。
 
   
       
 ある夜親鸞の夢の中に現われた聖徳太子は、この地で生極楽の要文を親鸞に授けられた。
今も境内東北隅には、こんこんと湧き出る聖水と、上宮太子影向石が残されている。

 当院は本願寺第九世実如上人が、親鸞聖人御遺跡保存のため、この縁の地にお寺を建立、北山御坊と称したのに始まり、延宝8年(1680)本願寺の別院となった。
                       
 

金福寺


 北山御坊を更に南へ、洛北らしい農家の土塀に添って小径を曲がると、ひっそりとした金福寺の山門が見えてくる。
石段を登り、玄関脇の板木を叩くと、奥からのんびりとした応えが返ってくる。
慈覚大師の創建と伝え、江戸時代円光寺の鉄舟和尚が再興した臨済宗の寺というよりも、芭蕉、蕪村、ゆかりの地で、洛東の俳諧遺跡として訪れる人が多い。 

 元禄(1688〜1704)の昔、山城の地を吟行中の芭蕉翁は、この草庵に隠遁していた鉄舟和尚を訪ね、風雅の道についてともども語り合いここで  「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」  と詠んだ。
それまで無名であった草庵を、鉄舟は芭蕉庵と称した。

 その後70年、芭蕉の風韻を慕ってここを訪れた蕪村は、荒廃していた芭蕉庵を惜しみ、安永5年(1776)今に残る芭蕉庵を再興した。
当寺にある蕪村自筆の「洛東芭蕉庵再興記」によれば、
  「もとより閑寂玄隠の地にして 緑苔やや百年の人跡をうづむといへども 幽篁なほ一爐の茶煙をふくむがごとし
    水行き 雲とどまり 樹老鳥睡りて しきりに懐古の情に堪へず」
と記され、今なお独り庵に坐せば、辺りは幽寂にして裏山の松籟に二百年の時の隔たりを忘れる。 
 
 
 
 
中央茅葺屋根が芭蕉庵
 
 谷口蕪村は摂津の国に生まれ、江戸に出て早野巴人に俳諧を学び、後奥州行脚の旅に出て、宝暦元年(1751)京都に定住した。
その間丹後与謝に遊び、妻を得て与謝蕪村と称した。
画家としては俳画に独自の画風を開き、文人画家としても池大雅と並び称され、また俳諧は正風俳諧への復興を唱えて、絵画的、浪漫的俳風で天明俳諧の中心をなした。
芭蕉を追慕した蕪村は「我も死して碑に辺りせん枯尾花」と詠んで、この地に墓を定め、天明3年(1783)10月25日68歳で歿した

 またその傍らには、画家の呉春、景文や俳人江森月居、青木月斗の墓、及び俳文学者穎原退蔵の筆塚、その他多くの句碑があり詩情はつきない。

                
   写真下中央 左端の石碑芭蕉句碑

      うき我を さびしがらせよ 閑古鳥
  
 

 
金福寺 山門

 
芭蕉庵と句碑

 
蕪村の墓
                                   

                                     村山たか女

 明治の初め頃、この寺に妙寿尼という小柄ではあるが、色白く何かいわくありげな老尼がいた。
彼女こそ井伊直弼の安政の大獄において長野主膳と組み、志士、公卿等の諜報活動に暗躍し、波乱に富んだ半生を過ごした村山たか女の世をしのぶ姿であった。
たか女の生い立ちは謎につつまれてはっきりとしないが、近江の国多賀神社の社僧と彦根の芸者の娘として生まれ、直弼の兄、彦根藩主井伊直亮の側女として仕えた。
後、京都に来て御所の官女駿河局に仕え、また可寿江と名を改め、祇園の芸妓として座敷に出たりしていたが、金閣寺の僧に落籍さる。
その寺侍多田氏との間に生まれたのが帯刀である。
 再び彦根に帰ってきたたか女は、埋木舎で文字通り満たされぬ青春を送っていた直弼に近づき、直弼の寵愛を受けることになる。

   
  たか女の墓の傍らで咲く山つつじ
 だがその愛も永くは続かず、運命のいたずらは直弼を彦根藩主から、幕府の大老として歴史の表舞台へ担ぎ出し、二人の関係は断たれてしまう。
 しかし、大老による安政の大獄が始まると、たか女は直弼の腹心長野主膳の妾となって再び京都に現われた。
かっての御所勤めの経験を生かしたたか女は、九条関白家に出入りし、島田左近と連絡をとり長野主膳の影の力として志士の検挙、探索に情報をもたらした。 
         
 万延元年(1860)3月3日、水戸浪士による桜田門の変で直弼が暗殺されると、京都では尊皇攘夷派の反動勢力によって、長野主膳、島田左近、多田帯刀も殺された。
たか女は「女であることゆえ、死罪を一等減じ」三条大橋の橋柱に縛り付けられ、三日三晩生き晒しの辱めを受けたが、その後助けられて尼となり、明治9年67歳で亡くなるまで当寺で晩年を過ごした。
山門脇には、巳年生まれの彼女が巳に因んで建てた弁天堂がある。
 墓は近くの円光寺にある。
 

                     丈山墓 (頑仙祠)

 石川丈山の墓は、詩仙堂から金福寺を抜け東南500メートル余り、舞楽寺山という小高い丘の山頂にある。

 村里を離れて続く雑木林の急坂は随分遠く思われ、ここまで訪れる人は殆どない。
松の緑に囲まれて基壇の上に立つ自然石の墓は、丈山が生前に建てた寿壙といわれるもので、寛文12年(1672)5月23日丈山が天寿を全うすると、友人野間三竹は「石聘君六六山人墓誌銘」とその上に刻んだ。

 六六山人とは丈山の別の号であり、その他、凹凸、四明山人、藪里翁、東渓等とも号した。
清澄な辺りの静けさは、孤高の詩人が眠るにふさわしい地である。

  
 
丈山墓