北山御坊 詩仙堂から南へ少し入ったところに、親鸞上人御旧蹟北山御坊がある。 ここも元比叡山三千坊の一宇、養源庵の跡であり、粟田口青蓮院で得度した親鸞が、比叡山へ籠もるまでの一年半の間修学に励んだ地で、御里坊ともいわれる。 後、親鸞は比叡山から京都六角堂へ百日通いの行をし、この境内に湧出する霊水にて、その都度身を清め休息をとられた。 |
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ある夜親鸞の夢の中に現われた聖徳太子は、この地で生極楽の要文を親鸞に授けられた。 今も境内東北隅には、こんこんと湧き出る聖水と、上宮太子影向石が残されている。 当院は本願寺第九世実如上人が、親鸞聖人御遺跡保存のため、この縁の地にお寺を建立、北山御坊と称したのに始まり、延宝8年(1680)本願寺の別院となった。 |
金福寺
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中央茅葺屋根が芭蕉庵 |
谷口蕪村は摂津の国に生まれ、江戸に出て早野巴人に俳諧を学び、後奥州行脚の旅に出て、宝暦元年(1751)京都に定住した。 その間丹後与謝に遊び、妻を得て与謝蕪村と称した。 画家としては俳画に独自の画風を開き、文人画家としても池大雅と並び称され、また俳諧は正風俳諧への復興を唱えて、絵画的、浪漫的俳風で天明俳諧の中心をなした。 芭蕉を追慕した蕪村は「我も死して碑に辺りせん枯尾花」と詠んで、この地に墓を定め、天明3年(1783)10月25日68歳で歿した 。 またその傍らには、画家の呉春、景文や俳人江森月居、青木月斗の墓、及び俳文学者穎原退蔵の筆塚、その他多くの句碑があり詩情はつきない。 写真下中央 左端の石碑芭蕉句碑 うき我を さびしがらせよ 閑古鳥 |
金福寺 山門 |
芭蕉庵と句碑 |
蕪村の墓 |
村山たか女 明治の初め頃、この寺に妙寿尼という小柄ではあるが、色白く何かいわくありげな老尼がいた。 彼女こそ井伊直弼の安政の大獄において長野主膳と組み、志士、公卿等の諜報活動に暗躍し、波乱に富んだ半生を過ごした村山たか女の世をしのぶ姿であった。 たか女の生い立ちは謎につつまれてはっきりとしないが、近江の国多賀神社の社僧と彦根の芸者の娘として生まれ、直弼の兄、彦根藩主井伊直亮の側女として仕えた。 後、京都に来て御所の官女駿河局に仕え、また可寿江と名を改め、祇園の芸妓として座敷に出たりしていたが、金閣寺の僧に落籍さる。 その寺侍多田氏との間に生まれたのが帯刀である。 再び彦根に帰ってきたたか女は、埋木舎で文字通り満たされぬ青春を送っていた直弼に近づき、直弼の寵愛を受けることになる。
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丈山墓 (頑仙祠) 石川丈山の墓は、詩仙堂から金福寺を抜け東南500メートル余り、舞楽寺山という小高い丘の山頂にある。 村里を離れて続く雑木林の急坂は随分遠く思われ、ここまで訪れる人は殆どない。 松の緑に囲まれて基壇の上に立つ自然石の墓は、丈山が生前に建てた寿壙といわれるもので、寛文12年(1672)5月23日丈山が天寿を全うすると、友人野間三竹は「石聘君六六山人墓誌銘」とその上に刻んだ。 六六山人とは丈山の別の号であり、その他、凹凸、四明山人、藪里翁、東渓等とも号した。 清澄な辺りの静けさは、孤高の詩人が眠るにふさわしい地である。 |
丈山墓 |