関雪の画室存古楼
             白沙村荘

 市バスを「銀閣寺道」で降りて、疏水沿いの道を山手へ歩むと、直ぐ右に白沙村荘がある。

 大正、昭和の日本画壇の巨匠橋公開本関雪の邸宅で、優雅な庭園と関雪のコレクションになる多数の石像美術品が一般公開されている
大正5年関雪がこの地を手に入れた頃は、まだ辺り一帯が水田で、農家の門前を流れる白川は河床の砂白く、水車の音ものどかでここを白沙村荘と名づけた。
関雪によって造られた一万平米の庭園は、池を穿ち、倚翠亭、問魚亭などの茶室を造り、池畔の小径や植え込みの間に石塔、石仏を配した池泉回遊式庭園である。
特に関雪の大アトリエ存古楼から、東山如意ヶ岳の翠黛を池に映してみる風情はさながら一幅の画である。
一芸に秀でた芸術家の目は全てに通じ、絵筆を取る時の構図も、庭の構成も心は一つのものである。
関雪自身「石も木も呼吸している、それを見た瞬間その呼吸さえぴったりすれば、直ぐどこに据えるかという判断がつくべきである。」と語っているが、何気なく置かれている庭石のひとつひとつに芸術の心を感じる。
関雪は明治16年神戸に生まれ、20歳で竹内栖鳳の竹杖会に入り、大正2年「遅日」という作品で文展に入賞した。
  
 
 36歳の時早くも帝展審査員に選ばれ、四条派と南画の流れを取り入れた作風で多くの名作を発表、代表作に「玄猿」「木蘭詩」等を遺し、昭和20年63歳で亡くなった。
園内の陳列室ではスケッチ、下絵等の関雪の作品が展示されている。

 また、疏水端の桜並木は、大正11年関雪の夫人よねによって植えられたもので関雪桜と呼ばれている。
関雪が夫人の十三回忌に、愛妻を追慕して詠んだ漢詩の碑は、白沙村荘の門前疏水のほとりにあって、今なお散策する人々の心を打つものがある
 
 
庭の石仏
 
存古楼殻大文字山を望む
 
関雪の詩碑と桜並木
   
              浄土院   

浄土院山門


 銀閣寺のにぎわいを他所に、その北隣にひっそりと浄土院がある。
平安中期、この地には天台座主明救僧正が建立した名刹浄土寺があって隆盛をきわめた。
 その後、度重なる火災により伽藍は衰微し、足利義政の東山殿造営にあたり、相国寺の西へ移転させられやがて廃絶した。
江戸時代の享保年間(1716〜1736)泰誉上人は、この村に旧浄土寺本尊として伝えられていた阿弥陀如来を祀り、浄土宗に改め、名も浄土院として再建した

 この寺は8月16日に行われる京都の夏の風物詩、大文字の送り火の寺としても知られている。
大文字の由来には諸説あるが、昔浄土寺が炎上した時、ご本尊が火焔の中から如意が岳に飛び移り、光明を放ったのが大文字の起こりと当寺には伝えられている。
今も大文字の送り火は、ここの住職の読む般若心経を合図に点火されている。